◎神の綱がれるのではなく、こちらから切るのだ。切らずにすむ信心とは、報いる信心になること。報恩の念。
%1夜の雨の中を自転車で参拝。
%2田主丸の高芝さんの信心。
%3報恩の念。
%4親先生に報恩の念がなかったらとうの昔に親教会とは切れていた。別派金光教が出来ていた。親教会は切っても親先生は切られなかった。
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昭和四十三年九月二十五日朝の御理解
X御理解第十七節
「神の綱が切れたというが神は切らぬ氏子から切るな」
だんだん信心を進めて参りまして、もう何かそこに困った問題とか難儀なことが起きてくると、いわばどうしてこのようなことが起きてくるだろうかと、ゆうような心もちが起きてくる。そういう時にはすでに、神の綱が切れかかったと知らなきゃならんですね。
「これだけ信心するのにどうしてこんなことが」といったような心が起こった時には、神の綱が切れかかっておる。
%V「切れかかって」じゃないね「切りかかっておる」こちらが切りかかっておる。自然に切れるものでもなければ、神様が切られるものでもないのですからこちらが切りかかっておる。…ね。
%V「神からは切らん」と仰っておられる。「氏子から切るな」とこう…。「もう信心したっちゃおんなじこってすよ。こげなことが起こってくる。」「こんなに難儀なら信心しとったちゃ、しとらんでちゃ同じこつ、せんほうがまし」といったようなことで信心をやめたりする人が、ここにまさしく切れたわけです。切れたじゃなく、切ったわけなんです。
%V信心はどこまでも、金光様の御信心はですよ、日勝り、月勝り、年勝り、代勝りのおかげを頂いて行かねばならないと思うのです。…ね。「信心しておれば一年一年ありがとうなってくる」と仰る、そのいわゆる日勝り、月勝りとはいかんでも、一年一年ありがとうなってくるという信心、ね、そのありがとうなっていくというところに焦点を置かれないといけません、ね。切れます。いわゆる自分で切るようなことをいたします。
%1昨夜の御祈念をさせて頂く前に、土居の久富さんがお参りしてみえられて、昨日のお湿りの中にそれに風まで加わって、いうならどしゃ降りの中を参ってこられる。畑の中を【】られるのですね【】なるから、ですからさく道ですから、道がとても悪い。ところがね、夕べはいつもの時よりも【】が前にすっすっと進むような感じであった。または後ろから誰かが押してくれとる。押してくれておる感じであったと、「おかげで今日は御参りができました」とこう言うのである。
%V%G%Hこれは私どもが過去のことを思いましてもですね。あん時分にようあんな修行ができたと自分でも思う。昨日の朝の御理解の「油断をするな」ということでしたかね。本当にあのように油断もすきもつくらんで、そういう気持ちではございましたでしょうけれども、自分ながら思うくらいにあのくらい一生懸命にやれたもんだと、自分で思いますけれども、今考えてみるとですよね、自分がやったんじゃない、やらせて頂いたんだ、神様からさせられたんだという気分が一番強いです。
%V%G%Hとてもあんなことが普通でできるこっちゃない、あんな修行が、ね、けれども、やるぞと、「矢でも鉄砲でも持って来い」といったような勢いでです、こちらがその修行に取り組ませて頂いたら、「ようもようもああいうところを通らせて頂いたもんだ」そして考えてみるとそれがみんな【】な心であると同時に、ありがたく受け抜いてきておるということ、まさしく神様がさせて下さったんだということが分かる。
%V昨日久富さんが「今日はお湿り、雨風の日だから御無礼しようか」と言うとったら、おそらく後で心にかかられることになったり、いわば神の綱を切りかかるわけでもないけれども、その綱が何とはなしに弱い感じがします。けどもそこんところをです、雨風の中を「さあ」という気持ち、「さあ、御参りさせてもらうぞ」その気持ちが。そしてからここついてから思わせて頂くことは「神様が参らせて下さるんだな」と。
[雨の降る日はおじゃるなというに、濡れておじゃればなおかわいい]というような、ひとつの理というか、「今日のような雨の降る日に参って来んでも」神様が例えば仰るにしてもです、やはり参らずにおれんと、「それでもお許しを頂いて御参りがしとうございます」と、そこにです「なおかわいい」という働きがです、なるほど自分で参ったんじゃない、神様にお許しを頂いて、神様がこういう不思議な働きを見せて下さって、後で考えると神様からさせられておった修行であり、神様から御参りさせて頂いておったんだということになる。
私は修行中のことを振り返って思うてみても、一晩のことでありましても、【】体験は同じようなものである。
皆さんもこうやって毎朝、まあいうならばお天気の日ばかりじゃない。今日のような雨の日も風の日も、雨風ついてお参りになる。後で考えて御覧なさいませ、本当に参らせられたことに気づきます。
自分の我力だけではできるこっちゃない、ちゃあんとそこには参らなければならないような、何とはなしに雰囲気とか、「さあ」という気持ちがあるとです、そういう働きを必ず下さるのです。
そういうお届けが、御祈念をするちょっと前でした、ありました。そして、御祈念にはいったんですけれども、そういうお届けをさせて頂きましたら、おかげを頂きましたですね、ち、ほんなこてこれは体験したもんでなければわからん。
…ね、いわばぬかるみの中を自転車でくりゃ自転車が重うなるのは当たり前のことだけど、重いどころかかえって軽う感じたというて、はあおかげを頂いてという実感はその人でなければ分からない。そしたら頂きますのがね、こういう風なZ『幸』という字ですね。こういういうふうに頂くんですよ。土の下にハを書いて下がこうして書いてある。この土という字の下の字をですね、えらい力強く肉太く頂くんですよ。
Zちょうど幸せという字の中心をなす、真ん中になるものですね、だいたいいや、これが力強い、「ちょいと表に出ると、今日はだいぶん降りよる、おまけに風まで吹きよる」「今日は御無礼しよう」というようなものでは、こういう力強いものにはなってこない。
もちろん幸福のZ『幸』という字は、ね、これが逆さまになっても幸せと読むのです。…ね、こうまともに読めばこの幸せ、この真ん中が力強い。いわゆる心の中にいきいきとした元気な心、が信心にはどうでも必要であるということが分かります。
Zそしてです、例えばこれを逆さまにして、幸せとは似ても似つかん、それこそ今が苦労の真っ最中と思われるような時、いわば干される時、水を干すの干す。それこそ干されるような時であっても、やはり幸せを感じれる、それを感じれる時に、あなたは幸せだということがいえる。
%V都合のいい時、誰がみても幸せですねと言われるような時に幸せを感ずるのは、それは本当の幸せではないです。いつ崩れるか分からない幸せである。けれども、どうしてあんなことが「信心しよんなさるのにどうしてあんなことが、難儀なことが続くじゃろうか」と、例えば言われるような時であっても、信心者私自身はですね、信心しておる私自身は、ね、有難いというものがですね感じられる時に初めて、それが幸せの土台になる。そういう意味での幸せの土台になる。
%V干されるような時でもやはり、幸福の「幸」ですね。幸せを感じれれる。「どうしてこのようなことが」じゃない「こうして神様が鍛とうて下さる、何と有難いいことだ」ということになってくると、「どうしてがこうして」になってくる。
%Vそこに私は本当の信心の歓喜ですね、よろこびですね、歓喜があると思う。「本当にこんなに難儀な中にそげん有難いとですか」人が疑うくらいに有難いものが湧いてくる。ここんところを私は話さにゃいけん、そこんところを人に聞いてもらわにゃいけん。
%2田主丸の高芝さんが家も屋敷も家財道具まですっかり保証だおれでとられたことがあった。自分は本当によその屋根裏のごたるところで、あん時は家族四人でしたでしょうか五人でしたでしょうか、家族の者が本当に、過ごされたあの何か月か続いたあの時分にです、もう一生懸命に金光様の信心を話しておられる。それを聞いた時にあの久留米から参ってきなさる野口さんは、「金光様の信心ちや、ちょっと他の信心とは違うばいと思うた」とこう言われる。
%2自分は家も屋敷もなくなしてしもうて、しかも家財道具まで取られちしもうちから、それでん「金光さま、金光さまといよんなさる、しかもそれを人に伝えられるということは、これはただの信心じゃなかばい、これはいっぺんお参りしてみろう」。野口さんばかりは困ったことがあったけんじゃなかとです。高芝さんのそのへんに動かされたのですね。
%2「子供も今あのようなことになとる、けれどもそれを修行と思うて一生懸命に受けよります」というような話じゃ、だあれん通わん。えずがるから。「金光様の信心しよりゃ、家も屋敷も失うようなことじゃえずか」というようなことになってくるです。「そういう中にありますけれども、私の心の中には歓喜、喜びがいっぱいなんです。とにかくお参りしてみて御覧なさい」というような、それに野口さんは動かされている。
%2本当にそこにそれがなからなければ出来んのです。【】の話を聞けば聞くほどね、その信心の有難さが分かって、ああいう熱心な信心ができるようになっておる。
ここんところをですね私は頂かなければ、「もう信心しよったちゃ同じこと、ここまでなってしもうてから」と言うておったら、自分で切っておったことになっておったでしょうね。神の綱を、合楽との縁もなかったでしょう。
%Vけども、そこんところをやはり頂いていったと、こう思うんです。いわゆる、信心はいつの場合でも喜びを以て根とするのである。「根賀以」である。ですから、いわば喜びの追求である。
どのような中にも喜びを見いださせてもらう、いわば謙虚な、いわば芸術家の方たちが、いよいよ美の追求をしていかれるように、信心させて頂くものはいよいよありがたしという、どのような中にあっても有難いというものを追求していくことが信心だと。
私は今日の御理解十七節を頂いてから、御理解のこの通りのこと、「神の綱が切れたというが神からは切らぬ氏子から切るな」これは余りにもたくさんの人が、「あのような熱心な信心をしよんなさった人がやめてしまう」そういう人がどの位多いか分からない。
もう本当にどの位多いか分からない。これは合楽のことだけを言うても、本当にここでおかげを受けて「本当に神様のおかげで助かりました」という人が、そのまま信心を続けておるなら、まあだどれだけあるか分らんでです。信者は。
%V中に自分から切っていっとる。それが次の時、次の時に自分の思うようにならなかったり難儀なことになったりしたら「信心しよるとにどうしてこげん雨風が吹くじゃろうか」といよるのと同じことですよ。
%Vその雨風がしるしいのですから、かえって神様を恨むようなことを言うて信心を自分からやめていく、「同じことじゃ、参ったっちゃ」これでははじまらない。そこで私はこういう御教えを下さったんだと思う。神から切るのじゃない、氏子から切るな。
%V%3だから、氏子から切るなと教えておられるけれどもですね、ならどういうような信心にならせて頂いたら切らんですむだろうか、現在のこの有難い有難いがでないような時でも切らんですむようなおかげを頂くために私どもは信心をしっかり頂かいとかにゃいかん。そうしたら、この『報いる』という字を頂きました。報恩の報です。報いる。
%V%3報国の報ですね。国に報いるという。はあ、なるほどこういう心がですねいよいよ強うなっていかねばなりません。まあいわば天地の大恩に報いる。こういう素晴らしいことが分かれば、もうこれは絶対ですけれども、なかなか分かったようで分かっていないです。聞けば分かるんだろうけれども、実感としてですね、天地のご御徳ということが分かっておって分っとらん証拠に信心をやめていっておるじゃないか。自分から切っていきよるじゃないか。
%H%I%4例えて申しますならば、私と三井教会、善導寺のことを思うてみると、私にこの報いるという気がなかったならばもういつの昔に善導寺と切れとるですよ。本当、椛目時代に切れておるですよ。そしてここが金光教合楽教会ではなくて、おそらく別派金光教が生まれたに違いありませんよ。
%H%I%4天地金光教とか、ね、天光教といったような、別の教団ができておる。金光様の御信心から別派が生まれとる、別派金光教神愛会といったようなものがです私はできておったに違いないと思うです。けれども私の心の中にです。これは切っても切れないもの、それは誰が何というてもです、三井教会、善導寺があってです椛目があるんだ。私はいつもこれを思うとる。
%H%I%4なるほど、御本部からそう言われた時代があったけれども、一日たりともそれは消えちゃいなかった。かならず機会が来る。かならずチャンスがある。もう切れたもののようにみんなが言いもした。また思いもしたに違いはないけれども、私の心の中には切れていなかった。
%H%I%4毎日お日届けのお初穂がだんだんたくさんたまっていった。毎日かならずお初穂がされていく、けどお初穂だけのことじゃございませんけれども、結局三井教会あって椛目である。初代の親先生あって私どもであるということをです、それに報いるという心があったおかげで、おかげで切れんですんだんです。
だからここんところを神様と私どもというふうに頂いてもいいわけ、もし私どもに信心がなかったならば、あの時からどうなっておったか分からないといったような体験をしっかり積んでおかなければいけないということ、それは現在はどうであっても、あの時もしおかげを頂いていないならば今の大坪の家も合楽もあったやらなかったやら分からないというふうにです。
%Vそこんところのおかげを頂いてあるおかげで報いるという心が、例えばそれを頂いておってもですね、やはりそこに報いるという心がだんだん薄うなっていくということにもなる、なりかねないのですけれども、この報いるという心がだんだん強うなっていくという信心をしてもろうたら、いわばどのような場合でも切らんですむことになってくるわけです。
%Vそれは向こうから切られるようなことがあってもです、こっちから切らん。
%H%I確かに善導寺の場合なんかそうでしたから、「親でもなければ子でもない」とはっきり言われとったんですから、言うなら向こうから切られとったんですけれど、ような形であったけれども、こっちが切っとらん。それはただ向こうに報いがあったばっかりなんだ。
%V「神の綱が切れたというが神からは切らぬ氏子から切るな」。久富さんじゃないですけれども、先程雨風の中に「さあ」という心で飛び出してくるところからなるほど神様が御参りさせて下さるんだなと、普通のお参りの時よりも有難いというものを感じなさったようにです、人生の雨風もまたそういう受け方頂き方、人生行路の上にも今が雨じゃろうか風じゃろうかという時にです、どうでしょうそういう風に有難く頂けたら、ね、それこそ切れようともしないでしょう。
%Vそして、むしろそこにです、本当に神様が後押しをして下さったか、前から引いてくださったかちゅう実感の中にお参りできられたようにです、そういう中を後で考えてみて「ようもあそこを通り抜けさせて頂いたものだ」考えてみればみるほどに神様のおかげでいかせて頂いたんだということを体験させて頂くような体験が、また雰囲気がです、必ずあるです。そういう時期になれば、どういう中にあっても、ね。
それには幸福の「幸」の字ですね。土の時の中心になるところ、真ん中になるところのこの横一棒がですね、力強い辛抱が一本通っとかねばなりません。
…ね。まともに【】しいあわせん、ではなくて反対になっておるという、いわゆる干されるような時でもです、そこに有難いというものを感じれれるような信心させて頂きゃ、切れることも切られることもないのですけれども、そこにもう一つ私どもは報いるというこの心がいよいよ強うなっていく信心、いわゆる報恩の心というものがです、いよいよ強うなっていく。
そこから切れるような、当然切れると思われるような時でも切れんですむおかげが受けられる。そこになる時にこの御理解十七節はもう必要でなくなってくる。やはり、必要でなくなってくる。この御教えの一つ一つがいうならば、%T四神様へある先生が「金光さま、私は毎日御神戒を書いてはっております、額に入れてあげとります」というて、四神様が仰った、「御教えというものは見るもんじゃない、書いたものをいっちょいっちょ消していかなならん」
これだけはいらんようになった。というて、毎日というか、だんだん自分のものになってきたら、もう自分の血に肉になっていかなければならない。只見てるじゃだめだということを仰られたわけでございましょうがね。
私どもの中から御理解十七節がですね、必要でなくなるようなおかげを頂くためにいよいよ喜びを以て根とする、いわゆる喜びを高めていかなければ、それはどのような場合でも、干されるような場合であっても喜びがいよいよ強うなっていく。
いうなら信心、同時に報いるという心、これがまたいよいよ強うなっていく、ね、恩に報いる。そういう心があるかぎり私はこの御理解十七節は必要でなくなってくる。とこう思うです。お互いひとつそういうおかげを頂きたいと思うですね。どうぞ。